フリー・チャーチ牧師・田崎の部屋

牧師・田崎敏明の日々の徒然日記

小さな学校の離任式

一昨日は近くの小学校の先生の離任式に参加させていただきました。


郊外の全校生徒13名の小学校です。今回10名の先生方のうち6名が離任でした。(例年よりも多い) 大人も子供たちも涙でした。


「この学校に来て、いろんな動物たちとも出会えました。海外の動物と思っていたアナグマとも…」
「優しい皆に助けられました…」
「みんなはこれが普通と思っているかもしれないけど、ここは本当にみんなが仲の良い学校です」
「ここに来れて本当に幸せでした…」等の先生方のお別れの挨拶に笑いと涙。


最後、離任される先生方の退場の際は、子供たちみんな号泣…。
心洗われました。


新学期からは私も新たに小学校の放課後ボランティアとして、子供たちと接します。
「こどものようにならなければ」と語られたイエス様の言葉を噛みしめながら、子供たちからもいろいろと学ぼうと思います!


誤解で批判される時

こんな牧師なので(どんなだ)ネット上でもよく批判される。友達の進藤龍也牧師ほどではないが(笑)


批判される時って、ほとんど私の投稿の一部分や言葉尻を切り抜いて、私が言ってもいないことを言ったことにされ、主張してもいないことを主張したことにされて批判される。
そんな時はネット上で弁明しても「ああ言えばこう言う」になるので、仕方ないので「電話ででも直接話をしよう」と提案するのだが、これまで直接の話し合いに乗って来た人はただの一人もいない。私、優しく話してあげるのにね(笑)


こんな時思うんだよね。誤解されののしられ、ただ黙って十字架に上って行かれたイエス様のことを…。


人生に追い込まれた時

人生は実に苦難の連続で、『もうイエス様しか頼りにならない…』というところまで追い込まれる。
でも、キリスト者にとっては、それもまた実はありがたいことだったりする。

桜は自分が咲きたい時に咲く

人はみんな自己中心だから、「〇月〇日に桜が満開になってくれたら良いなぁと」考え、そうならなかったらガッカリする。
だけど桜には桜の都合というものがあって、自分にとって一番良い時に咲くのだ。
人も同じ。自分の都合を人に押し付けないのが良いのだ。


初めの愛

親は子供が生まれると
「この子がもうただ元気でいてくれたら、ほんとそれだけでいいわ~」
と思うものです。
ところが(笑)、4,5年も経つと、その元気に遊び回っている子供を捕まえて、
「もっと勉強しなさい!」
「もっとしっかりしなさい!」
「もっと早くしなさい!」
「もっと普通にしてよっ!」
と、「もっともっと」と要求し始めるものです。もちろんそれも愛しているからではあります。
でも初めの愛は「もっともっとの愛」でなくて、「そこにいてくれてありがとう」という、その存在そのものに対しての愛だったはずです。
もっともっとと要求する愛があります。一方、今のありのままを受け留める愛もあります。
イエス・キリストの愛は、今のありのままの私を受け留めてくださる愛です。そしてそれから私を日々成長させてくださる愛です。


■「あなたのためだったら私、死んでもいいわ~~」
と言っていた新婚時代の初めの愛。
しかし、4,5年も経つと、
「あんたのためなんかに死んでたまるもんですかっ!!」
となる。あっ、それはまた別の問題か…(笑)