フリー・チャーチ牧師・田崎の部屋

牧師・田崎敏明の日々の徒然日記

誤解で批判される時

こんな牧師なので(どんなだ)ネット上でもよく批判される。友達の進藤龍也牧師ほどではないが(笑)


批判される時って、ほとんど私の投稿の一部分や言葉尻を切り抜いて、私が言ってもいないことを言ったことにされ、主張してもいないことを主張したことにされて批判される。
そんな時はネット上で弁明しても「ああ言えばこう言う」になるので、仕方ないので「電話ででも直接話をしよう」と提案するのだが、これまで直接の話し合いに乗って来た人はただの一人もいない。私、優しく話してあげるのにね(笑)


こんな時思うんだよね。誤解されののしられ、ただ黙って十字架に上って行かれたイエス様のことを…。


人生に追い込まれた時

人生は実に苦難の連続で、『もうイエス様しか頼りにならない…』というところまで追い込まれる。
でも、キリスト者にとっては、それもまた実はありがたいことだったりする。

桜は自分が咲きたい時に咲く

人はみんな自己中心だから、「〇月〇日に桜が満開になってくれたら良いなぁと」考え、そうならなかったらガッカリする。
だけど桜には桜の都合というものがあって、自分にとって一番良い時に咲くのだ。
人も同じ。自分の都合を人に押し付けないのが良いのだ。


初めの愛

親は子供が生まれると
「この子がもうただ元気でいてくれたら、ほんとそれだけでいいわ~」
と思うものです。
ところが(笑)、4,5年も経つと、その元気に遊び回っている子供を捕まえて、
「もっと勉強しなさい!」
「もっとしっかりしなさい!」
「もっと早くしなさい!」
「もっと普通にしてよっ!」
と、「もっともっと」と要求し始めるものです。もちろんそれも愛しているからではあります。
でも初めの愛は「もっともっとの愛」でなくて、「そこにいてくれてありがとう」という、その存在そのものに対しての愛だったはずです。
もっともっとと要求する愛があります。一方、今のありのままを受け留める愛もあります。
イエス・キリストの愛は、今のありのままの私を受け留めてくださる愛です。そしてそれから私を日々成長させてくださる愛です。


■「あなたのためだったら私、死んでもいいわ~~」
と言っていた新婚時代の初めの愛。
しかし、4,5年も経つと、
「あんたのためなんかに死んでたまるもんですかっ!!」
となる。あっ、それはまた別の問題か…(笑)


人に何かを押し付けない

聖書の言葉は誰が読もうと全く同じですが、その実生活への適応の方法と難度は、それぞれその人が立つ環境などによっても違うと思います。


たとえばの話、これはちょっと誤解を招くかもしれませんが、牧師という立場は、ある意味で信徒の方々よりも信仰生活が送りやすいということはあると思います。
私など、教会まで歩いて約10歩ですし(笑)


また「あなたのその環境下では簡単に出来るだろうけど、私のこの環境の中では、やろうと努力していますが、なかなか大変なのです」ということもあるでしょう。


だから、人が何かを出来るように励ます時にも、その人の今の立場をちゃんと考えて、自分のやり方を一方的に押し付けないこともまた大切なことだと思います。