「100人に食べ物を与えることができなくても、一人にならできるでしょう」(マザー・テレサ)
大きなことや、正論を語るよりも、今日出来る小さなことを一つやりたい。
今日誰か一人にでも笑顔を送るたけでも、それで良いと思う。
写真は今から24,5年前かな。神学校を卒業して開拓伝道を始めてから4,5年目の写真。
不思議ですよね。苦しかったことは忘れていて、楽しかった思い出ばかりが残っている。
私は33年前、神学校を卒業して伝道を開始した時には、
「よしっ、これからは私の働きによって、この日本はキリスト教国に変わるっ!」
と確信したのです!
…しかし、それは単なる気のせいでした(笑)
今は時と共にへりくだらされます。
それもまた感謝なことであり、それが神様のお働きなのだと今は思います。
競争社会からこぼれ落ちた者を
教会が受けとめる
教会からこぼれ落ちた者を
別の教会が受けとめる
その教会からもこぼれ落ちた者を
キリスト教の団体が受けとめる
キリスト教の団体からこぼれ落ちた者を
友の心が受けとめる
友の心からこぼれ落ちた者を
いったい誰がうけとめるのか
社会全体からこぼれ落ちて
もう受けとめてくれる者もいなくなったとき
主イエスがいちばん低い所にいて
あなたを受けとめてくださる
御腕の中に憩わせてくださる
「これからのキリスト教」工藤信夫 P35より
・・・・・・・・・
私もいちばん低い処をトコトコと歩いています。
どなたかご一緒しませんかぁぁぁ。
一番低い処が一番イエス様に近い…そんな気もしています。
欠けの無い人など一人もいませんよね。
だけど人ってちょうど良く欠けているのかもしれませんよ。
皆でそれぞれの欠けを補い合うために…。
だから欠けがあっても、その一人一人の存在はちょうど「良い」ものなのではないのかな。
お互いの欠けを非難し合うのでなくて、お互いの欠けを補い合いたいね。